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未来へ繋ぐ今日 御座敷あそび さんすくみの消費税減税

 組合加入の相談で、川床(ゆか)エリアの一つ、西石垣(さいせき)通り(四条先斗町下ル)の料理屋さんを訪問しました。川床が始まるのは5月1日からなので、部屋内からの景色を眺めました。南座の破風が並び立った姿、四条大橋の往来、穏やかな鴨の流れにしばし見とれていました。
 美しい眺めと裏腹に、コロナウィルス影響で、3月の売り上げは例年の2割、4月、5月の予約の相次ぐキャンセルに悲鳴を上げておられました。

 ところで、西石垣通りから足を伸ばした、先斗町や祇園を歩いていると、お茶屋さんが目につきますね。この看板や提灯を見かけると決まって思い出す話があります。

 私の友人の工務店の親方の話です。彼のいとこが三重県に住んでいまして、定年退職となりました。いとこ曰く「無事にお勤めを終えたご褒美にお茶屋遊びをしたい。奥さんには内緒で退職金のなかから100万円を抜いたのでお金はある。紹介してくれないか」
 
 私の友人も、お茶屋遊びに同席すらしたことがなかったので、紹介なんぞは到底できないのですが、長い間仕事で出入りしているお茶屋さんがあって、そこの女将さんに相談をしたわけです。女将さんが「あなたは長い間私の家をきちんと守ってくれた。信頼しているのでいとこさんの望みに応えまひょ。」と言って、快く引き受けてくれたというんです。一見さんお断りの例外版です。

 さてこのおふたりさん。もちろんお座敷遊びに大満足だったのですが、支払いは業界のしきたり通り。100万はあるというものの、この世界は請求書での後日払い。いくら請求されても致し方ありません。月締めを待ち、ドキドキして請求書をみると、「セーフ」。「意外なほど、良心的なお値段」だったそうです。

 このいとこさんの勇気には拍手です。私も一旦の退職のおりに、親方に頼むチャンスはあったのですが、どう考えても大やけどすると思い、ようしませんでした。

 お茶屋遊びといえば、御座敷小唄でしょうか(行った事もないのに)。そして唄と言えば、とらとらではないですか。
 
 「とらとら」は、じゃんけんです。加藤清正の朝鮮出兵時の武勇伝が、歌の起源ともいわれますが、とらとらの口上にでてくる武将は「和藤内(わとうない)」で、近松門左衛門の人形浄瑠璃(国姓爺合戦)が元になっています。和藤内という変わった名前、一説に和(わ)でも唐(籐)でも無い(内)ハーフのことと言われています。

 虎は和藤内にまけ、和藤内は老母に負け、老母は虎に負けます。さんすくみのお遊びです。お座敷体験をYouTubeを見ましたが、楽しさが伝わってきます。

 この「さんすくみ」という言葉で、消費税減税をめぐる政治的な駆け引きを連想します。

 コロナ被害で日本経済が窮地に立っているように見えますが、消費税10%増税で、日本経済のGDPが大きく減少していました。瀕死の状態で日本経済にとどめを指しに来ているのが、コロナ被害です。したがってコロナ被害明けの経済対策は大幅な消費税減税しかない、これが100%正解の答えであると確信します。

 この消費税大幅減税の有用性をテレビで「一人」気を吐いている人が藤井聡京大教授です。私はこの藤井さんの話が聞きたくて一月に東京で行われた税研集会に参加してきました。

 大幅な消費税減税が速攻性もあり持続性もある経済対策であると思えるのに、現在のところ実現のめどは立っていません。

 何ゆえか。消費税減税を実行するにあたっては「さんすくみ」があると思うのです。

 消費税減税は不況に勝ち
 消費税減税は財政再建に負ける
 財政再建は不況に負ける

 ここで問題なのは、消費税減税を口にすると、国家財政はどうするの、って人が多いことです。
 先ず官僚が「財政に責任が持てない」 次に大企業が「高い法人税の復活って事になれば、国際競争力がなくなる」。庶民からも純粋に「財源が心配」

 そこで私は思うのです。今求められている消費税減税は、税制ではなく、経済対策だということです。 先ず消費税減税を実行し景気を回復させる。企業の業績を伸ばす。そこで法人税を「適正化」する。

 アメリカでこれと似たような経済政策の成功例がありました。カリフォルニア州は最低賃金を2022年までに15ドルとする決定しました。2016年までは10ドルでした。
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 最賃の大幅引上げには大企業はもちろんですが、中小企業の経営者団体は「倒産する」と大反対しました。しかし州知事は断行し、結果は中小企業の経営が大きく改善しました。中小企業と国民消費は思っている以上の密接な関係にあったんです。そして現在、中小企業経営者団体が「もっと最賃を上げてくれ」と要請しているというのです。

 先ず消費税大幅減税をやってみること。そして減税が景気をよくすることを証明するんです。私はその勇気こそが政治決断であり、必ずや吉とでると確信しています。

 そして西石垣通りの料理屋さんの悲鳴をなくし、ゆったりと川床を楽しみたいものです。
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未来へ繋ぐ今日 「記憶」にございませんから「記録」がございません 記録の大事さ

 昨年にヒットした映画「記憶にございません」は、ロッキード事件(45年前)の際、小佐野賢治氏が国会証言で発した「言い逃れ」の言葉を、現代の政治家、特に安倍首相に当てはめて風刺したものでした。ただ現政権は「記録がございません」となっており、言い逃れの技術も進化しているようです。

 「官僚が記録を破棄することは絶対ない」これってテレビ等で絶えず議論となります。私も記録自体を完全に破棄することは無い、どこかに残している、直感ですが「先ず」そう思います。

 さてこの「記録」ですが、最近ひょんなことから、私の先祖が約250年前の7代前から5代前まで、熊本県の資料に記載されていることが分かりました。むろん現代人すべてが、現在の人類ホモサピエンスの子孫ですから、約20年万の歴史を持つわけで、250年なんて瞬間の話です。ただ250年前の家系記録があるとなると、これはまた貴重な気がするのです。

 なんで「記録」があったのか、です。それは明治5年の戸籍編纂「壬申(じんしん)戸籍」の仕組みにありました。壬申戸籍は身分制度を一新するために明治政府がおこなった統計で、国民を新たに皇族、華族、士族、卒族、平民に区別しました。問題となったのは武士を士族と卒族を区別する必要がないのではということです。卒族とされた足軽にも優秀な侍がいますし、数も士族約130万に対し、卒族も66万に上っています。

 当時、士族となるか平民となるかは重大問題となったことでしょう。士族というだけで給与をもらっていましたからから。それに名誉もありますよね。線引きは代々「侍」であったものは士族へ、一代限りのものは平民とすることとしました。(結果9割の卒族が士族となりました。)

 そこで、5代前の先祖は祖父から自分に至るまでを由緒書にして、明治7年10月、村長(戸長)を通じ県に武士家系であるとの申請をしました。この由緒書きが県に資料として残っていたのです。身分が低いゆえに、三代に渡る「記録」が残った訳です。

 由緒によると、7代前の先祖は外様足軽(卒族)で、参勤交代で江戸に行ったおり、江ノ島弁財天を見物していて、帰りの門限に遅れてしまい役職を罷免されてしまいます(浪人になったということでしょう)。その後学問への情熱があり、筑前(今の福岡県、北九州あたり)の城井(きい)道升に師事していました。やがて老母の嘆願で、細川藩の菩提寺、妙解時(みょうげじ)が身元引受人となったことから、身分が復活します。そのころ医師になったと記されています。申請している5代前も医師とされているので、足軽の身分で医師の家系が継続していたということになります。

 果たして5代前の先祖は士族に編入されたのか。その顛末はこれから調べることになります。

私の父と父の兄弟は、先祖といえば、祖父から始まる話しかしませんでした。「その前はどうなっているか」と聞くと誰も「知らない」と言ってきました。長年の空白が一挙に埋まる期待にわくわくな気分です。

 ところで下級武士といえば、明治維新の最大の立役者であり、下級武士の反乱の最大の大将であったことからも、やはり西郷さんですよね。隆盛が産まれた時の西郷家は47石だったそうです。それが今日でいくらになるかですが、

 47石を俵にしてみると 2,5倍で117俵。これをキロすると ×57で 6,670K 10Kの米が4000円とした場合、 266万(年収)です。テレビでみた西郷家は大家族でしたから、経済的にはたいへん、というか、禄だけでは暮らしていけなかったと思われます。禄以外の兼業が必要でしょう。

 もう一つの下級武士、足軽はどうでしょうか。
 私が調べた足軽の代表が、平賀源内です。江戸時代の科学者であり教養人であるマルチ人間ですね。

 平賀源内は讃岐高松藩の白石家の三男。足軽の身分で役は蔵番。一人扶持切枚三石となっています(長崎・人魚伝説・山崎洋子著)。この意味合いは男1人分に対応する一日5合の玄米を基本給(禄)として支給し、さらに役職に対し年三回に分けて(切って)3石を支給する、となります。

 現在の賃金に相当する額は、

  一人扶持は5合×365日=1825合 およそ1,8石とします。3石を足して 4,8石 
 4.8石に ×2,5=12俵  12俵 ×56キロ  672キロ 10キロ4000円として 約268,000円が年収です。

 これは暮らすとかいう水準ではないですよね。したがって他に本業を見つけることが必要でしょう。

 この例だけでは比較にはならないと思いますが、一口に武士といっても、細かで厳密な身分の差があり、大きな経済的格差になっていたという事でしょう。

 そうすると、下級武士が秩禄処分(給与停止、退職金相当を分割して支給)に不満を持って起こした反乱で、その中心となったのは足軽を含まない下級武士だったと思うのです。私の先祖が神風連の乱や西南戦争の時、そもそもそれだけでは食えない、程度の給料であったとすれば、反乱する動機は希薄であり、参加してないのではと感じています。

 こんな名もない家族の歴史が分かる日本です。「記憶がありません」ッテなことない。それが確信になった今宵です。



 

 

未来へ繋ぐ今日  塩分の取りすぎと人類の歴史

 11日付日経新聞の世論調査で老後の不安に健康をあげる人が、71%で第一位でした。老後資金も気になりますが、やはり健康あってのものだね、ってことですよね。

 かくいう私、健康診断の結果、腎臓の数値が悪く、内科を受診。結果、再検査をすることになりました。渡されたパンフに、塩の取り過ぎで血圧があがり、血圧が上がると腎臓の悪化につながると記載がありました。

 そんな中タイミングよくNHKスペシャルで、現代人は「塩中毒」!? 人間が塩の「とりこ」になる驚きの理由、が放送されました。

 塩の取りすぎは万病の元。動脈硬化や脳卒中を招くことは前々から指摘されてきたことではありますが、Nスぺでその真相に迫ったのです.。わかっちゃいるけど止められない、理由の解明です。

 人間が塩の虜になる理由の一つは、4億年までさかのぼる遠い遠い過去にありました。
海のなかでしか生存できなかった地球の生命体が初めて陸上に進出しましたが、塩たっぷりの海から、陸上に動物が進出できたのは塩問題を克服したからでした。

 具体的には舌の発達です。塩を美味しいと感じるセンサーができ、塩をかぎ分け、好んで取り入れる能力を持ちました。

 またせっかく体内に取り入れた塩であっても、尿によって対外に排出されてしまいます。ところが尿から排出される寸前の塩を回収することに成功しました。回収率は99%です。その機能が腎臓でした。こうして人間の体には常に約200gの塩が蓄えられ、陸上での「自由」を獲得したのです。


 そうはいっても、塩はどこにでも転がっているものではありません。海の近くとか、たまたま見つけた岩塩の近くとかでしか生存できないとなると、活動領域や数に限度があるってことですね。

 ところが、もう一つの「塩の虜」事件が起きます。

 人間の爆発的な人口増加は、食料調達の中心が狩猟や採集から、大量の穀物と野菜を手にすることで可能となりました。農耕のはじまりです。肉食だけの場合は、内臓や骨髄を食べることで塩が補給されて、別に塩を取る必要はありませんでした。しかし穀物、野菜には塩が含まれていません。さてどうするか。

 そうです。製塩です。人類は塩を作ってしまいました。NHKの番組ではルーマニアの8000年前の製塩の現場が紹介されました。また岩塩の発見も相次いだことでしょう。
 
 しかし人間が塩の虜となるのは、製塩の発明そのものではなく、塩がこの上もなく魅力的な調味料となったからです。これがもう一つの事件なのです。

 塩が汗などにより体内から排出される量は約1,5gなので、理論上は摂取は2gもあれば足り得るのですが、現代人の塩の平均摂取量は10gとも12gとも言われています。健康目安の塩分は一日7,5g。高血圧などの塩制限の場合では6gです。腎臓が悲鳴をあげています。

 生命維持のため身体が求めているのではなく、塩が料理を飛躍的に美味しくしために身体が塩を求めているですね、。

 舌は甘みを美味しいと感じとりますが、さらに塩分と甘みのドッキングを各段に美味いと感じる「特別舌センサー」の存在が最新研究で分かってきたというんです。このセンサーこそが人間を塩の「虜」にしたのです。

 絶対に必要な塩。でも取りすぎで健康障害を急激に増加させている塩。塩分のコントロールができる、これが私たちが元気で長生きできるコツになっていくという事ですね。

 ところで、世界の塩の生産の3分の2が岩塩ですって。日本には岩塩はありません。

 わたしは海辺ではなく、山で採れる塩が岩塩と思っていましたが、それは山塩って言うものでした。温泉が湧くところに、高濃度の塩水が出ていて、これを煮詰めてつくるそうです。

 地元で作った先祖伝来の山塩だけを使用して料理を出す温泉宿が、長野・南信州の秘境の大鹿村にあるそうです。その名も山塩館。相当おいしいそうです。減塩食事を考えながら、塩料理に思いをめぐらす。まさに現代人間のわたしです。
 

未来へ繋ぐ今日 日本人にとっての正月休みとコンビニ労組のストライキ

 セブンイレブンの労組(コンビニのオーナーの組合)が「2020年の正月休みを一緒に取ろう」と連帯ストライキの呼びかけをしました。「24時間365日休みのないコンビニのオーナーよ、せめて元旦ぐらいは休もうぜ」。同感です。休め、休めです。

 この呼びかけの最大のポイントは「正月ぐらいは休む」です。
 かって日本人にとって正月は一年のなかで最も大切な日でした。正月休みは、日常虐げられた人達に取ってこそ、大儀ある休息日でした。丁稚(児童)が、子守が、農民が、女性が休めるんです。借金も師走をのりこえたら正月は「セーフ」です。

 いつから日本の正月のもつ力が衰えたのか。少なくても1998年の大店法の廃止の影響は大きいものでした。大店法は百貨店や大スーパーが中小商業を破壊するのを制限するため作られたものですが、具体的には一日の営業時間と年間の閉店日数に最低限のルールを課すというものでした。
 
 そうです。この法律の是非は企業間の過当競争の有効な制限を目指したものでしたが、具体的な方法は、営業時間の制限です。最も厳しい時期には、年間44日の休業。午後6時に閉店となっていました。労働時間の規制が大店法の本質だったのです。

 年間44日の閉店のうち、いつが真っ先に休みやすいと思いますか?・・・そう正解!
正月3日を休めば、消費者にも説明がつくし、労働者からも喜ばれるんです。大型小売店の初売りは四日からでした。

 しかし、この大店法はある法律との取引で廃止の運命をたどります。消費税です。当初、百貨店やスーパーの経営者は先頭に立って消費税反対運動をやっていました。この社長連の「内乱」により消費税をたくらむ内閣はそれまで選挙で負けていたんです。消費税を何としても導入したい政府と財界は社長連に、「大店法廃止」を条件に消費税に賛成するよう働きかけます。

 「自由」な店舗拡大と営業時間や営業日数の撤廃で大儲けができると、ささやいたのです。作戦成功です。
 消費税が成立します。

 消費税が始まる平成元年には大店法廃止へのビジョンが打ち出され、大型店規制の大幅緩和が開始されます。平成9年に大店法が廃止され、住環境対策を中心とした大店立地法が成立し、営業日数、閉店時間が事実上無制限となりました。

 24時間営業そのものは、すでに1980年前半(昭和の終わりごろ)にコンビニ全社で取り入れられていました。コンビニは始めこそ小規模店舗でスタートしますが、現実には巨大な小売店です。オーナー制度を敷くことで、形だけ中小店ですが、本来大店法の規制の対象のはずだったんですが、法の目をすり抜けていました。

 このコンビニ、「開いててよかった」のフレーズとともに、消費者ニーズをとらえ、空前のコンビニブームが起こり、営業時間の規制よりも緩和こそが、「会社を繁栄させる」という幻想が形成されました。これが大店法廃止の引き金となったかもしれません。

 
 大店法廃止で、約1000万人の商業労働者の多くが、少なくても正月三が日の休みを奪われました。ただでさえ労働時間が長い労働者の数少ない団らんの日を奪ったのです。親のいない正月、子どもの帰ってこない正月。そして日本人全体の正月文化も奪っている気がします。歳末セールの翌日の初売り。おせちの必要のない正月。

 大型小売店が消費税以上に儲かると踏んだ大店法廃止でしたが、利益の出ている大型小売店は「皆無」に近い状況です。
 消費税は税率が上がるたびに、国民の消費意欲をそぎ、「福祉のため」の殺し文句とは裏腹に、福祉の連続改悪で今より将来の防衛で貯蓄がふえ、購買力激減です。
 また極端な店舗拡大は売り場面積の巨大化を引き起こします。売り場の商品が不足し、国内生産物だけでは追いつかず、食品添加物の改悪を行い、外国の商品が置かれます。外国との競争にさらされ国内の農家の収入も激減です。
 
 
 この正月三が日営業が始まる寸前ころから数年の間、私は所属していた労働組合で、京都市内全店の大手スーパーの店長と労働組合長を訪問し、正月営業に職場から反対の声をあげてもらう活動をしていました。パートの主婦に元旦営業を依頼する苦労などが口々に語られましたが、ダイエーがやっているのを指をくわえてみてられない、という声が支配的で、現場から反対の声を組織していくのは困難なことでした。私は予備校・学生時代に新聞配達で学資を調達していたので、盆も正月もない暮らしを経験していました。だから正月休みがなくなるのは他人事には思えない心境で運動をしていましたが、力及ばず、正月元旦からの営業は見事に現実のものなりました。

 日本人にはもっと休息が必要です。しかし日本人は病気でさえ、なかなか休め(休ま)ないのに、ましてそれ以外の理由は大儀がなければ休めません。だから祭り、盆、正月、誕生日、法事、これ大事です。なかでも正月。今休まなければやがてなくなるかもしれません。そして将来は全ての人が正月に休めるような環境にしていくことが大事です。病院も、警察も、消防もです。

 コンビニの労組の呼びかけが成功することを強く望んでいます。 どこで、どんな働き方していようが、大事な日には休める日本。このストの成功は日本の未来の形をかえるきっかけになるかもしれません。

 



 

未来へ繋ぐ今日 小規模な専業農家だからなせた父母の技

 日本の死因の第一は癌です。中でも肺がん死がダントツとなっています。
私のおふくろも肺がんでなくなりました。職業性肺がん、農薬曝露です。同じ集落でおふくろと同じ仕事をしていた何人かが同時期になくなったことで、職業性癌が判明しました。

 おやじとおふくろは2人で野菜に防虫消毒をしていました。おふくろは後尾に位置取りし、ホースを引っ張り、農薬を拡散する役目でした。後尾は多量の農薬にさらされました。

 これだけの話で終われば、「ただただ残念な結末」となるのですが、この農薬の散布には、父母2人が小規模ながら専業農家になりえた秘話がありました。

 私の曽祖父は肥後藩の下級武士でした。明治9年3月の廃刀令に次いで、8月には秩禄処分で給与を失いました。わずかながらの公債の利息で「武士の商法」として始めた薬売りの仕事も長続きはせず、農村内の賃労働者として生きていました。祖父は隣家の三男坊で、この家の養子となり、わずかな土地と賃労働で生計を立てていました。従って私の父も「三反百姓」で賃労働者として後を継いでいました。祖母の長患いなどで、多額の借金があり、それを返済するためにおやじは、集落ではいち早く高度経済成長の都市部に出稼ぎに行っていましたが、そのおかげで借金を完済し、出稼ぎも終了しました。子どもたちも都市部に就職し、父母の専業農業生活が始まったわけです。

 そのころ耕作面積が多少は増えていましたが、小零細農業に変わりはありませんでした。しかし日本の高温多湿の農業は集約性が高く、作物次第では、充分食っていけるものを生産できるのです。

 おやじとおふくろは、狭くても収穫量が多く、軽量のものを選びました。最後に行き着いたのが、三度豆です。一年で三回収穫できるという三度豆です。しかし高温多湿では虫も活発です。思った収穫を得られませんでした。丁寧に防虫剤を散布しても虫を退治することはできませんでした。

 2人を悩まし続けた虫でしたが、あるとき2人は気づきました。防虫した三度豆の葉を、日にかざしてみたんですね。防虫したはずの葉の裏側に無数の虫がうごめいている。虫は葉の裏側で生き延びているのでした。

 これで駆除できる。当時誰も気づいていなかった葉の裏側の虫を下からホースですくいあげるように農薬を散布した結果、虫退治に成功。三度豆はすくすくとのび、収穫が追い付かないほど大きくなりました。

 喜び勇んで持って行った市場では、大きすぎる三度豆は「規格外でアウト」ってなるんです。

 がっかりしていた二人に朗報が来ます。大きな三度豆を高値で買い取る市場があるとのこと。出荷してみたら今までの相場より1,5倍以上の値がついんたんです。

 この虫退治の方法は、地域の三度豆の収穫方法のモデルとなりました。親父曰く、「ずいぶん稼がさせてもらった」。たぶん人並みの生活ができるようになった、ということでしょう。滞納していた年金も追いつき、お金の無心もされなかったことを考えれば、そうだったんでしょう。

 実家には今でも当時農協から表彰された「三度豆」表彰状が沢山飾ってあります。私は、両親の農業者としての生涯は「栄光の日々」であったと思うわけです。

 今、日米貿易協定で自動車の利益のために、日本農業は息の根を止められようとしています。

 農業が耕作面積だけできまると思っている人にとっては、日本の農業に未来はないように見えるのでしょう。だから食料は全部輸入でもよいと。しかし農作物の収穫量は面積では決まらないのです。また経済的視点においても、国土の保全費用、生産地から食卓への距離を加味すれば、外国との価格競争に負けるはずがありません。
 
 おやじとおふくろの専業農業は、ささやかながら、日本の農業のありかたを示しているのではないかと思えるのです。
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